一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)

Menu

フラッシュ

2008/01/22 No.105沖縄「平和の礎」にみる永久平和を祈念する思い

青木健
(財)国際貿易投資研究所 客員研究員

2007年11月、沖縄の戦跡を訪れる機会があった。沖縄は太平洋戦争で、日米両軍が最初にして最後の唯一陸上で一般民間人をも巻き込んで本格的に交戦した地である。沖縄戦での戦没者数は20万人余である。このうち沖縄県出身者は12万2228人、県外6万5908人、合計18万8136人であるとされている。米軍は1万2520人である。沖縄県出身者戦没者数のうち約9万4000人が民間人であるという。当時の沖縄の人口は約45万人であったので、3人に1人が亡くなられたということになる。このように多数の犠牲者を出した悲惨な戦争を2度としてはならないとの決意と犠牲になられた方々を慰霊するため、沖縄には100余の慰霊碑・慰霊塔があるという。その中心になっているのが沖縄戦で最大の犠牲者を出した沖縄本島南部の「摩文仁の丘(まぶにのおか)」にある「平和の礎(いしじ)」である。

一般に三つの要素が結びついていて、実質的に一つであるということを「三位一体」にあるという。「摩文仁の丘」に、「平和の礎」を中心に平和を祈念する二組の「三位一体」をみた。ひとつは「平和の礎」自体を構成する「平和の火」、「さざなみの池」および「刻銘碑」の三者の見事な融合である。もう一つは「平和の礎」とそれに隣接する「沖縄平和祈念資料館」および「沖縄平和祈念堂」との「三位一体」である。この二つの「三位一体」は、沖縄の青い空の下、「平和の礎」を軸に見事に融合した「平和祈念碑群」を形成している。

「平和の礎」

最大の犠牲者を出したのが、沖縄本島最南端にある「摩文仁の丘」を中心とする喜屋武岬一帯の東西10km程の地域である。終戦直前の1945年6月、ここに約3万の将兵と10万人余の民間人が混在していた。そこは自然壕が多く、米軍の攻撃を逃れるため住民が避難してきていたところに、日本軍も移動してきたからである。米軍は海と空からはもとより陸では戦車を先頭に、掃討作戦を展開した。おびただしい犠牲者がでた。しかし戦闘が終ると、自然壕などに避難していた8万人余が生還できた。それ故沖縄では、「摩文仁の丘」は「死」と「生」の2つを象徴した地であるという。

世界恒久平和の願いと戦没者の霊を慰めるための「平和の礎」の建立を決めた場所が「摩文仁の丘」である。その構想が持ち上がった1991年5月、県立平和祈念資料館改築・沖縄戦犠牲者「平和の壁」建設等基本構想検討懇話会が設置される。1992年3月に建設構想素案を作成し、名称を「平和の礎」に決定。1993年10月に、「平和の礎」に関る刻銘の基本方針を決定。これに先行して、沖縄県は1993年8月23日を提出締切りとする「平和の礎」デザイン・アイディアコンペティション募集要項を発表した(審査委員長・山本正男沖縄県立芸術大学学長)。その条件は以下のとおり(沖縄県「募集要項」より)。

  1. 基本理念
    1.戦没者の追悼と平和祈念
    2.戦争体験の教訓の継承
    3.安らぎと学びの場
  2. デザイン・コンセプト
    1.平和の波永遠なれ(EVERLASTING WAVES OF PEACE)
    2.鉄の暴風の波濤が平和の波となってわだつみに折り返す
  3. デザイン・アイディア条件
    1.沖縄戦全戦没者名(約24万人とする)が刻銘版に刻銘可能な規模とする
    2.施工及び建設後の維持管理が、合理的かつ実施可能なものであること
    3.お年寄りや幼児、身障者の見学を配慮し、また直射日光や暑熱の緩和を考慮したものであること
    4.刻銘部分の素材は、恒久的に風雨塩害に耐えるものであること
    5.「平和の火」の安置場所を設けること
  4. 事業費約18億1900万円
  5. 敷地面積17900平方メートル

また建設予定地の平和祈念公園内には「平和祈念資料館」が隣接し、北側のやや高台には「平和祈念堂」がある。

以上のような募集要項のもと、国内外から575件(うち国外から17件)の応募があった。大賞を得たのが現在の「平和の礎」である。太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を迎えた1995年6月に、「平和の礎」の除幕式が挙行された。

2つの「三位一体」

最初に「平和の礎」を訪れた。続いて沖縄平和祈念資料館、沖縄平和祈念堂を訪れた。実際にみた後の印象は、事前に想像していたものとは全く違うものであった。私の印象は「三位一体」が二つあり、相互に見事に調和した平和を祈念した関係になっているということである。二つの「三位一体」とは以下のとおりである。

第1の「三位一体」は「平和の礎」における「平和の火」、「さざなみの池」および「刻銘碑」より成る。

  1. 「平和の火」。これは直径20センチ、高さ1メートル位の円柱であろうか、その頂上に米軍上陸地の座間味と広島、長崎から採取し合火した「火」が燃えている
  2. 「さざなみの池」。「平和の火」を灯す柱を支えているのが腰くらいの高さにあろうか、直径2メートルの円形の「さざなみの池」で「平和の火」はその中心に位置する。池の水深は20センチ位であろうか、底には沖縄が池の中心となっているアジアの地図が描かれている。そこから平和の波がアジア全域に波及している
  3. 「刻銘碑」。沖縄戦で犠牲になった24万余の名前を刻銘した116基は、「さざなみの池」からの波を受けて扇形に広がっている。波型をした「刻銘碑」には国籍、軍人・民間人の区別なく沖縄戦で犠牲になった、全ての人々の名前が刻まれている。米国も沖縄戦で多くの死傷者を出した。米兵1万4008人も刻銘されている。外国人の刻銘はこの米兵を含めて英国、韓国、北朝鮮、台湾など合計1万4557人である。

「平和の礎」は、上記三者が組合わさって「三位一体」となり、先に挙げた「デザイン・コンセプト」を全て具現化している。さらに約1万7900平方メートルの敷地面積の中で「平和の礎」をみると、以下のように見事な設計となっている。

「平和の礎」のメイン園路は、その中心線が沖縄において組織的戦闘が終了した昭和20年6月23日の日の出の方向に合わせて直線になっている。メイン園路を軸に「刻銘碑」はほぼ左右対称に配置されている。「平和の火」はメイン園路の海に近い最も東側の位置にあり、扇形に広がる「刻銘碑」の要(かなめ)の役割を果たしている。

第2は「平和祈念堂」、「平和祈念資料館」および「平和の礎」の3者から成る「三位一体」である。

「平和の礎」の北側に隣接しているのが「平和祈念資料館」である。沖縄戦に関する軍関係や個人所蔵の文書、ひめゆり学徒の手記などが展示されている。2階には「沖縄戦への道」と「鉄の暴風」という2つの歴史体験ゾーンがある。先のデザイン・コンセプトで指摘したように、「鉄の暴風」(astormoftheiron)とは、沖縄戦で米軍が発射した銃弾の数は270万発以上、砲弾6万発以上、機関銃弾約3000万発など、雨あられのように降ってきたことを形容したものである。「平和祈念資料館」の北側の高台に隣接する高さ45メートルの7角形の堂塔が「平和祈念堂」である。堂内には沖縄が生んだ芸術家山田真山氏が18年余の歳月をかけて製作した沖縄平和祈念像が安置されている。その像は眼下の「平和祈念資料館」と「平和の礎」をやさしい眼差しで見守ってくれているようだ。

「平和祈念資料館」の開館が1975年と最も早く、「平和祈念堂」の完成が1978年である。二つでは「三位一体」は成立しない。「平和の礎」の完成をもって「三位一体」となる。しかも先にみたように、「平和の礎」自体も独立した「三位一体」を形成している。第2の「三位一体」は第1のそれと見事に調和している。特に二つの「三位一体」の軸となっている「平和の礎」は沖縄の人々の平和を祈念する想いが十分体現されており、ここを訪れた人々にその想いが伝わるものとなっている。

「平和の礎」はしばしば米国の首都ワシントン郊外のアーリントン墓地(ArlingtonNationalCemetery)と比較される。これは主に戦争で亡くなった兵士の「墓地」であり、1864年に南北戦争での戦死者のために築かれた。それ故恒久平和を祈念する「平和の礎」と基本的にコンセプトが違う。「平和の礎」の「刻銘碑」にはなくなった方々の名前が記されているが、その大多数は戦争に巻き込まれた一般住民である。なお敷地面積では、アーリントン墓地は2平方キロメートルで、「平和の礎」の223倍である。

もうひとつの「資産」

沖縄には世界に誇れるもうひとつの資産がある。それは「首里城」である。首里城は14世紀末の中国や日本の文化をも巧みに融合させて、琉球独特の雰囲気を醸し出している。

過去何度か焼失し再建されたが、沖縄戦で全部破壊された。その後1957年から園比屋武御獄石門から守礼門、弁財天堂などをはじめ、1989年に首里城正殿、南殿・番所、北殿、奉神門等の復元工事も着手され、1992年に復元された。首里城正殿に向かって左側にある北殿では、ペリー提督が首里城を訪れた時、歓迎の宴が催されたという。2000年7月G8に伴い第26回サミットが沖縄で開催されたが、歓迎の宴は北殿で催された。出席したクリントン大統領は「平和の礎」を訪れた。サミット開催を記念して二千円札が発行され、その図柄として「守礼門」が採用された。

小さな島で独特かつ独自の文化を築いたのは世界的にみてもそれほど多くなく、「首里城」はその代表例のひとつであろう。沖縄は特に「平和の礎」と「首里城」とともに全世界に向けて「平和のメッセージ」の発信基地となっている。

現代の「万国津梁(ばんこくしんりょう)」

沖縄には古くから「万国津梁」という言葉がある。この意味は「世界を結ぶ架け橋」という意味である。今から約500年前、東アジアの一大交易拠点として繁栄した琉球王国の国王によって鋳造された「銅鐘」に由来するという。これは首里城正殿前に掲げられていた。それでは現在の「万国津梁」はどのようになっているのか、以下貿易を中心とした対外関係をみよう。

本土復帰後の沖縄の貿易とその構造変化の特徴は次のとおりである。

  1. 1972年から1988年まで輸出は少なく、輸入規模は極めて大きいものであった。輸出の対輸入比率は1972年の14%を経てその後変動をみせつつ1988年には9%弱となった。その後石油精製の県内委託で輸出は増大するが、それでも輸入を上回ることは一度もない。
  2. 主要貿易相手国特に上位10カ国をみると次の特徴がある。輸出:(1)合計シェアは99.0%である。(2)そのうちグアムと米国を除きいずれも東アジア諸国であり、合計のシェアは94.0%である。第1位の輸出先は台湾で総輸出の3分の2以上(67.8%)を占め、以下韓国(9.6%)、香港(5.9%)、シンガポール(5.7%)、グアム(4.5%)、中国(3.0%)、米国(1.4%)と続く。輸入:(1)上位10カ国の累積シェアは88.7%である。(2)第1位の輸入先は豪州で26.8%、以下中国(15.5%)、台湾(8.6%)、ナイジェリア(8.2%)、韓国(6.8%)、ベトナム(4.8%)、マレーシア(3.7%)、インドネシア(3.1%)、カナダ(2.9%)と続く。東アジアのシェアは42.5%である(上位20位までは45.2%)。
  3. 貿易品目は石油関連が圧倒的なシェアを占める。輸出では2001年まで石油製品が、輸入では2003年まで原粗油がともに50%以上を占めていた。両者の関係は表裏一体で、その理由は上記で示唆した石油精製の県内委託である。
  4. その後、品目構成は大きく変容する。輸出では、精密機械・一般機械・輸送用機器の3品目が上位3位を占め,合計シェアは総輸出の66.7%である。輸入でも輸出同様に機械が相対的にシェアを高めているが、依然粗油が48.0%と半分近くを占める(以上いずれも2005年値。沖縄県庁HPデータ)

琉球が王国として繁栄していた当時、貿易範囲は日本の他、主に中国や朝鮮さらにベトナム、タイなど東南アジア諸国にも及んだという。取引品目は王朝文化を支えた技術の粋を集め現在でも「首里城」に展示されている食籠(日常の供物、食事入れ)、盆、絹の衣装などである。現在の主要な貿易相手地域は輸出入とも東アジアである。先にみたように、東アジアの割合は輸出で94.0%、輸入で42.5%である。約500年前当時は輸出入ともほぼ全量貿易取引は東アジアが占めていたことは容易に想像されるが、現在は地域単位でみて輸入先としての地位は第1位であるものの、相対的に低下している。これは当然のことながら、現在の沖縄の国内の産業構造はもとより東アジアの主要貿易相手国のそれとの違いによる分業構造を反映したものである。

県内総生産の構成は第1次産業1.8%、第2次産業12.1%、第3次産業90.2%である。日本全体の構成はそれぞれ1.5%、27.4%、75.0%である。県内総生産と国内総生産と比較して最も著しい相違は、前者の第2次産業の割合が後者の半分以下であるのに対し、その分第3次産業の比重が高めているということである。さらに県内総生産の特徴として次の点が挙げられる。(1)第2次産業のうち建設業が実に60.6%を占め突出して高く、第2位の製造業を大きく上回る。(2)製造業で最大の産業は食料品で、製造品出荷額のうち27.1%を占める。以下石油・石炭製品23.2%、飲料・タバコ・飼料15.2%と続く。これら3品目で製造品出荷額の3分の2(65.5%)を占める。後方連関効果の大きい金属ブロック(一般、電気、情報通信、金属)の割合は9.5%である(全国平均は51.4%)。(3)第3次産業の中核は観光を中心とするサービス業が約3分の1を(31.9%)、政府サービス業が19.2%を、それぞれ占め、両者のみで実に51.1%となる。以下不動産業(13.3%)、卸売・小売業(12.5%)、運輸・通信業(10.9%)、と続く。電気・ガス・水道は3.1%である(2004年、経済産業省『工業統計表』)。

以上のことから沖縄県の産業の特色は次のようである。

産業基盤は極めて脆弱だ。(1)沖縄の2大産業は建設業およびサービス産業で県内総生産に占める割合は34.9%である。これに政府サービス生産を含めれば上位3つのセクターの県内総生産に占める割合は実に半分以上(51.7%)となる。これは沖縄の戦後の歴史的経緯と観光資源の賦存を反映したものである。(2)後方連関効果が大きい機械産業が未発達である。機械3業種の輸出比率は高まっているが、これはその中間財輸入が支えているからである。こうした体質を持つ経済をhighexchangeeconomyと称し、これは日本を除く東アジア諸国に多くみられる。

沖縄にはもうひとつ特徴がある。それは対外依存度つまり貿易の対県内総生産比率が極めて低いことである。対外依存度は海外との関係が密接であるとか対外分業関係の深さを示す指標である。しかし沖縄は輸出が2.0%、輸入が5.5%と、日本全体の13.0%、11.3%(いずれも2005年)に比べて大きく下回る。これは、本土との移出移入があるためである。県内総生産に占める移出入の割合はそれぞれ20%強、40%弱である(2002年)。これを考慮すると沖縄の対外依存度は日本の平均を大きく上回る。特にエネルギーが必要である。だからこそ総輸入において原粗油が50%近くを占めているのである。

沖縄の役割は、これからも引き続き平和のメッセージ発信基地という高い役割を果たすことである。これに必要なのは経済力である。しかし沖縄の経済を分析すればするほど両者のギャップを感ぜざるを得ない。沖縄の課題は既にリーディング産業としての地位を確立した観光産業(注)に加えて、沖縄の資源賦存を反映した産業の育成であろう。(注)沖縄観光リゾート局『沖縄県における旅行・観光の経済波及効果』が優れた分析をしている。

※編集部から

フラッシュ7「理念発信都市:ワシントン」(2001年8月7日)と併せてご一読いただければ幸甚である。
筆者は2007年1月より独立行政法人・平和祈念事業特別基金理事長。杏林大学大学院国際協力研究科客員教授・経済学博士。著書に「太平洋成長のトライアングル」、「アジアのなかの日本―自分の居場所を探る」などがある。小論は筆者の個人的見解を記したもので、所属する「基金」の見解ではない。

フラッシュ一覧に戻る