ITIコラム

2019年5月17日

 

自由貿易の理想と現実

鈴木 裕明
(一財)国際貿易投資研究所
客員研究員

 

トランプ政権発足から二年以上が経つが、保護主義志向に収束の気配はない。安全保障や先端技術等覇権がかかる米中交渉はもちろんのこと、同盟国同士である米EU間も前途多難な状況にある。今後の日米交渉の本格化を前に、トランプ政権の米国を中心にして、自由貿易推進という潮流がいかに変化してきているのかを整理してみたい。

<理想実現のためのポリシーミックス>

よく言われるように、「トランプの嘘と迷妄が米国を保護主義に引きずり込んでいる」のであれば、むしろ問題は軽い。仮にトランプが2020年に再選を果たしたとしても、それでも2025年には別の人物が大統領に就任しているからだ。

だが、筆者は実態は逆であると考えている。トランプ政権誕生前から、米国民、特にラストベルトと言われる荒廃した旧工業地帯の人々は、自由貿易を推進する政治家や企業家たちの示す「理想」、その姿が自分たちの周囲にみられる「現実」とは異なることに気付き、強烈な不満を抱いていた。不満はいつのまにか、国政を左右するほどに増大していたのである。トランプはその声を掬い取ることにより選挙で重要州を押さえ、そうした人々の代弁者として当選した。

では自由貿易の「理想」とは何か。貿易をめぐる政策のベストプラクティスについて、エコノミストの間では概ねコンセンサスが出来ているのではないかと思われる。すなわち、①自由貿易の推進により経済全体のパイを拡大する、②ただし、それだけでは所得の分配に関して格差が拡大する可能性があるため、所得再分配や職業訓練支援などの政策によってこれを補完する。このポリシーミックスによって経済全体が拡大し、国民の誰もが貿易拡大前より豊かになれる。

文章にしてしまえば、とても簡単なことのようにみえる。「理想」などと言うのは大袈裟なようにも感じられる。実際、各国とも、20世紀後半以降、GATTからWTO体制の確立、そしてFTAの増大といった自由貿易推進の一方で、格差是正のための国内政策も実施して、この①および②の2本の政策を進めて来たのである。

<米国のFTA&TAA政策の破綻>

米国においては、②の政策として、貿易拡大を原因とした失業者などに対する職業教育を中心とする支援策、貿易調整支援(TAA:Trade Adjustment Assistance)が採られてきた。過去数十年を、きわめてざっくりと纏めれば、共和党が①を追求して自由貿易を進めようとするにあたり、労組を支持母体に持つ民主党が②に配慮してこのTAAの強化を要求し、両党で折り合うことで、自由貿易政策を進めてきたのだ。

だが、結果としては、②が不十分であった。もちろん、格差拡大は貿易のせいだけではなく、むしろ技術革新によるところが大きいというのが、多くの実証研究が示すところではある。しかし、いずれにせよ、米国では上位富裕層がより豊かになる半面、中間層以下では所得が伸び悩むという格差拡大が発生した。国民が政治を判断するときには、プロセスではなく、結果が全てであろう。

さらには近年、米国の労働移動が意外と鈍いという実証研究も話題となった(注)。貿易推進により輸入が拡大すれば国内の競合産業は衰退して雇用がだぶつく。これらのいわゆる「余剰雇用」は適切な職業訓練を受けて、その国が得意とする産業に転職していき、そこで輸出拡大を支える労働力となる。これが、自由貿易による経済のパイ拡大のプロセスだ。しかし、ここで産業間で労働力が移動しなければ、経済は目詰まりを起こす。思ったように輸出は伸びず、失業者はいつまでたっても再就職できない。

なぜ、労働移動が鈍いのか。要因として考えられるのは、経済学の教科書では、「小麦生産から綿糸の生産へと労働力が移動する」などとなっており、そこでイメージされるのは現代の高度な生産システムではなく、かなり素朴な単純作業であって、それなら短期間の職業訓練でシフトできるだろうと思える。しかし、現代ではそうはいかない。産業や社会が高度化するにつれ、労働者に求められる水準もまた高度化・複雑化している。誰もが短期間の研修ですぐにAIのシステムエンジニアになれるわけではない(というか、筆者のような門外漢にとっては、ほとんど不可能だろう)。

さらにそこには、労働者のプライドの問題もある。世界中、国を問わず、たくさんの人々が自分の仕事に誇りを持って働いている。比較劣位産業だとして無造作にそれが奪われれば、その人の経済面のみならず心を破壊することになる。米国のラストベルトにおける人心荒廃の一因であろう。

したがって、TAAは細心の注意を払って、かつ予算も十分に付けて実施しなければ、うまく機能しないだろう。そのように万全の態勢で政策を実施したとして、それで失業者が懸命に研修に励んだとしても、それでもかつての仕事での給料や自尊心を維持することはなかなかに困難かもしれない。そしてTAAがうまく機能しなければ、そもそもこれに反対していた共和党など保守派からは、税金の無駄遣いとの批判を浴びることになる。米国民や失業者自身からも支持はされないだろう。そんなまだるっこしいことをするくらいなら、輸入を止めてしまえと言うであろう。かくして、FTAとTAAをセットにして進めてきた米国の自由貿易推進はトランプ政権の誕生を以て事実上破綻し、保護主義が「センター」に登場した。

<日本の事情、欧州の事情>

日本は、米国が保護主義を進めれば確実に実害を被ることもあり、トランプ政権の保護主義に厳しい視線を向ける。自由貿易推進による経済のパイ拡大と、格差是正策のセット。なぜこんな簡単なことが出来ないのかと、苛立つ。

しかし、そもそも日本はこれまでは貿易黒字を基調とする国であり、大幅な赤字を恒常的に計上している米国とは状況が違う。さらには日本では、衰退産業から成長産業へと企業が雇用者を抱えたまま方向転換するというシステムも合わさって、貿易をめぐっての格差問題は米国ほどには顕在化していない。他方で、そのような企業の在り方と根を同じくする新卒一括採用(+終身(長期)雇用)というこれまた独特なシステムは、新卒時の景気格差がそのまま世代間での不公平固定化につながるという歪な状況を産んでおり、日本独特の問題を引き起こした。また、今後に目を向ければ、日本の貿易収支は減少から赤字に向かう傾向にあると言える。企業もまた、雇用を抱えたままだと動きが鈍くなることを実感し、身軽になろうとしている。AIなどシステム化の加速による余剰労働力出現の可能性もあり、先々を見通せば、米国の保護主義は決して対岸の火事ではない。

欧州もまた然り。欧州では、要となるドイツが貿易黒字国であることも手伝い、貿易に関しての保護主義圧力は米国のようには目立たない。他方、域内での自由貿易体制を追求したその先のゴールとしてEU統合を進めたために、国家としての主権をどこまでEUに譲るか、加盟国間でどこまでの政策協調が妥当かという問題に行き当たった。それがBrexitのような統合の揺り戻しや、難民問題での対立となって表れてきている。

<令和のアナーキーな貿易投資環境>

「自由貿易推進」という理想。理想主義者にとって、それを追求しようとしない者、理解しない者は愚かな反動主義者ということになる。しかし最大の問題は、その理想が実現可能であるかどうかにある。少し歴史を振り返るだけで、これまでに多くの「理想」的な思想や協定、宣言、演説などが掲げられてきた。オバマも、どちらかといえば、高い理想を掲げてそれを目指そうとする大統領であった。しかし、オバマ時代を含め、「理想」は実現されないまま、綺麗ごとでは済まない人間のサガを前提とした「現実」に潰されていくことが多かったように思える。

自由貿易を推進するために、いかに格差是正を進めるか。富裕層は増税による所得再分配を許容できるのか。TAAに予算はつくのか。失業者は業種や職種の転換をスムーズに出来るのか。そのために、どのような現実的な方法があるのか。これらはいずれもすぐれて国内政策であり、国際機関などで外から干渉するようなタイプの事柄ではない。自由貿易の外部からの支援はなかなか難しいだろう。

もちろん、世界中が保護主義に染まってきたわけではない。輸出志向経済の体制を整えた新興国は自由貿易から大きな利益を得られるため、推進派としてこれからも期待できる。しかし、米国のような貿易赤字体質(言い換えれば過剰消費体質)の先進国が、自由貿易推進に戻ってくることを安易に期待するのは現実的ではない。それどころか、他の先進国、もしかすると日本もまた、将来的には保護主義寄りの志向が強まっていくかもしれない。

とすれば、WTOのような、全会一致を求められる場での貿易投資自由化拡大には、この先一層悲観的にならざるをえない。WTOでも有志国での取り組みが重要となろう。目先でいえば、欠員が増え続けるWTO上級委員会の明日についても、どうなるかは分からない。このままいけば、紛争になっても裁定が出来なくなる。

FTAなどの通商交渉も、NAFTA再交渉において米国・カナダ・メキシコの3か国が輸出数量規制の導入で合意したように、もはや何でもありの時代に逆戻りしてしまった。「今日の世界」に、「昨日の世界」のルールは通用しないということだろう。その一方で、今回の再交渉において、NAFTA(新名称ではUSMCA)の内容はデジタル貿易の追加など、アップデイトされかなり前進した部分があることもまた事実である。つまりは、時代を逆行する保護主義と最新の自由貿易推進が混在している。そのようなルール無き中で、メリットを勝ち得ていかなくてはならない。我々は、まさに、アナーキーな貿易投資環境の中で、令和の時代を生きていくのだと覚悟を決める必要がある。

 

(注)マサチューセッツ工科大学のデビッド・オーター教授らのグループは、累次にわたり対中貿易に関して、このテーマの論文を発表してきている。たとえば、Autor, David H., David Dorn, and Gordon H. Hanson. 2016. "THE CHINA SHOCK: LEARNING FROM LABOR MARKET ADJUSTMENT TO LARGE CHANGES IN TRADE" Working Paper 21906, NATIONAL BUREAU OF ECONOMIC RESEARCH